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枚岡神社の「お笑い神事」へゆく

23日、枚岡神社で「注連縄掛神事」が行われた。
これまでは25日だったが、天皇誕生日の「天長祭」に合わせられた。

主祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は初めて祭りを行って祝詞を奏上したという。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れた際に、天児屋根命が岩戸の前で祝詞を奏上し、神々が大声で笑い続けて岩戸を開かせた、との伝承がある。
それに因んで笑うことで福を招き新年の開運を願う年末の神事として「お笑い神事」ともいわれた。
江戸時代以前に始まったといわれ、東大阪市無形民俗文化財に指定されている。
平成20年から氏子らだけでなく、一般の参詣者も参加できるようになり、今年は2000人超(報道による)の参詣者が広く参加した。

年末の予祝の行事の一つとして注連縄が掛け替えられる。
早朝8時半頃から氏子総代が白装束姿で新しい注連縄を作り、掛け替えた10時頃から神事が始まる。
宮司の「アッハッハー」の笑い声に続き3回笑った後、参詣者が20分間一斉に自由に笑い続ける。
「笑う門には福来る」といわれる。
20分間、笑い続けることで日常の嫌なことなどの雑念を笑い飛ばして新年の開運を祈願する。
お笑い神事1.JPG
11時からコンテスト「大笑い競べ(くらべ)」、やまと舞「やまとの季」の奉納、瓢箪山戦隊ショウフウジャーなどのショーがあった。
時代屋一座による大道芸は「ひょっとこ踊り」「正調・河内音頭」「南京玉すだれ」などが奉納された。
「どじょうすくい踊り」は三人の男で踊った。

島根県安来市の民謡の安来節(やすぎぶし)の「どじょうすくい踊り」は滑稽なおどりを含んだ民俗芸能だ。
踊りは大きく分けて「男踊り」と「女踊り」がある。
踊りの際にはザルを持ち、ピグ(腰カゴ)下げて、手ぬぐい(豆絞り)を頭に被って踊る。
「男踊り」に決まった形はなく、演者がアドリブで踊る。
男踊りのどじょう掬いはこの周辺の名産である安来鋼を作るたたら吹き製法の際に原料として使われる砂鉄採取の所作を踊りに取り込んだもので、「どじょう」は「土壌」であるという説もある。
どじょうは土壌の中に生息しており、「土壌」を掬いながら「どじょう」も獲れた。
一石二鳥の喜びがユーモアラスな踊りに現れているのではなかろうか。
お笑い神事2.JPG
この日は早朝から少し歯が痛かった。
そのため「お笑い神事」に参詣するのはやめて、12時30分からの「やまとの舞」の奉納に行くことにした。
ところが東高野街道から神社までの登り道を自転車に乗る元気がなくて、結局「やまとの舞」の奉納には間に合わなかった。
しかし大道芸の奉納が終わる頃には歯痛が治まっていた。
「笑い」の効用を実感した。

参考:
枚岡神社
http://hiraoka-jinja.org/

日本の大道芸・時代屋一座
http://genki365.net/gnkh17/mypage/index.php?gid=G0000072

「給水塔」見つけた!

17日、R170(外環状線)を自転車で走っていた。
東大阪市から大東市にさしかかったところで「煙突」を見つけた。
大東市の焼却施設だろうと思いながら近づいて見ると、UR都市機構南新田団地の給水塔だった。
給水塔1.JPG
(撮影場所:東大阪市元町2の大川沿い)
読売新聞(2016.11.28付夕刊)の記事を思い出した。
高度成長期に全国の団地などにできた「給水塔」の鑑賞がブームで、撤去が進みつつ今も全国に約900基残っているという。

存在を知って初めて、地元の平野区は団地が多く、今も給水塔が残っていることがわかった。
それまでは恥ずかしながら団地住民のゴミの焼却施設の煙突だと思っていた。

地下鉄喜連瓜破駅の北方にある大阪府住宅供給公社喜連団地にあった。
1968年(昭和43年)に完成した。
給水塔の周りの道路は一方通行のロータリーになっている。
給水塔2.JPG
大和川・高野大橋の少し上流の右岸堤防下にある大阪府営高野大橋住宅にあった。
虹色にカラフルに装飾されている。
1963年(昭和38年)の建設当初はそうではなく、1980年代後半から90年代初頭にかけての「府営住宅景観改善事業」でそうなったようだ。
現在は団地全体が閉鎖されており、いずれ建物とともに解体される。
給水塔3.JPG
大阪市営住宅では東喜連住宅や長吉長原西第三住宅にあった。
給水塔5.JPG
「日本給水塔」のHPでは、給水塔の外観でトックリ型、ボックス型、円盤型、むき出し型などに分類されている。
喜連団地や高野大橋住宅ではトックリ型で個性的な一方で、大阪市営住宅はボックス型の画一的な印象だ。
その中でかつて大阪市営長吉長原西第二住宅には頂部が「鳥かご」のようなむき出し型の給水塔があったが、団地の建て替えに伴いなくなった。

給水塔は一般的に低・中層住棟で構成された大規模団地にある。
その役割は地上に受水槽から給水塔の頂部のタンクにポンプアップして、「サイフォンの原理」を利用して各世帯に給水している。
丘陵地帯にあるような給水塔のない重力式給水では負圧の発生で、微生物、チリ、砂、肥料、毒物などで汚染された浅い地下水が給水システムに滲出する場合がある。
また水圧が不足すると建物の上階にまで水が達しなかったり、蛇口からの流量が不足したりする。そのために水の安全のために充分な水圧が必要で、給水塔で重力を使って給水管に水圧を与えている。
停電しても水を供給できるが、タンクへの揚水には電気が必要なため長時間の供給はできない。
また水使用のピークである時間帯には給水塔が貯水池としても役立っており、ピークの時間帯には水位が下がり夜間にポンプで揚水される。

高層の団地へ建て替えられるとそれより低い給水塔は「無用の長物」だ。
また老朽化や耐震性の問題から各棟ごとにポンプアップするようになっている。
給水塔4.JPG
こうして給水塔は町の景観から消えていく。

参考:
日本給水塔(団地給水塔鑑賞ブログ)
http://kyusuitou.blog87.fc2.com/

大阪府住宅供給公社
http://www.osaka-kousha.or.jp/

大阪市役所「平野区の市営住宅」
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000217294.html

「河内王権」はあったのか?

現在、奈良県内10か所を巡回開催される「日本書紀を語る講演会」(募集終了)がある。
17日、王寺町で開催された講演会を聴講した。

講師は明治大学名誉教授の吉村武彦氏
演題は「『書紀』の語るヤマト王権と河内」

4世紀(古墳前期)の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀(古墳中期)には河内に築造されたことから王朝が交替したとする説がある。
『記紀』に記されている天皇の漢風諡号の名から、「三輪王朝」は「イリ」系とされ、「河内王朝」は「ワケ」系と呼ばれている。
しかしこの王朝交替説には否定的な見解も多い。
吉村氏も否定的な立場だ。
その理由の一つとして、王墓よりも王宮を重要視して基本的に王宮は大和にあったとしている。
「地域国家」から見ると、4世紀後半~5世紀にかけては大和と河内の勢力が一体化した「大和・河内連合王権」で王朝交替はなかったとする歴史家がいるということだ。
河内王朝1.JPG
講演会に先立って「大和川と王寺の遺跡めぐり」と題したエクスカーションがあった。
「王寺観光ボランティアガイドの会」の案内で、JR王寺駅を出発して、大和川堤防から舟戸神社(西安寺跡)、達磨寺、片岡神社(片岡王寺跡)、井戸地蔵、考霊天皇陵からJR王寺駅へ戻るコースだ。

私はそれには参加しなかったが、王寺駅の北方を流れる大和川に対して、南方を流れる葛下川を歩いた。
河内王朝2.JPG
葛下川(かつげがわ)は金剛・葛城山系の岩橋山や二上山の東麓を水源とし、JR王寺駅の西方で大和川と合流している。
葛下川はかつてはかなり蛇行していて洪水被害が多かったため、明治22~24年にかけて堤防のかさ上げや川幅を広げる改修工事が行われた。
薬王橋の西詰にその様子を石に刻んだ「葛下川修堤碑」がある。
薬井3.JPG
しかし昭和57年のJR王寺駅一帯を襲った洪水被害では、葛下川の流れが増水して激流となった大和川に合流できずに溢水した。
そのため大和川と葛下川の堤防に囲まれて水の逃げ場がなくなる王寺駅周辺の堤防のかさ上げ工事と内水の排水ポンプ場が設置された。

薬王橋の東詰に古い石の親柱があった。

その東方の薬井の町角に「薬井の井戸」がある。
石の井筒を施した掘り抜き井戸で、水は濁ってはいるが、今も湧出している。
井戸の片隅には「薬井水」と刻んだ古い石がある。
弘法大師がこの地に訪れたときに教えられたように水が湧出して眼を患う人が訪れたと伝承されている。
薬井1.JPG
薬王橋へ戻って国道168号線沿いに聖徳太子遺跡霊場の一つの達磨寺(だるまじ)がある。
本堂前の池にツルの置物がある。
境内には王寺町の公式マスコットキャラクターの雪丸像がある。
雪丸は聖徳太子が飼っていた愛犬の名で、人の言葉を理解できて読経したという。
「薬師石」には目を閉じて両手で石を抱くことが出来れば病気が全快するという伝説がある。
河内王朝3.JPG
国道168号線を挟んで向かい側に片岡神社が鎮座している。
社伝によると、風雨の神として信仰され、994(正暦5)年に疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人がその救済を祈願して奉幣したという。
河内王朝4.JPG
鎮守社とする放光寺は王寺町の町名の由来とされる「片岡王寺」の跡地にある。
隣接する王寺小学校のグランドではその遺構とされた奈良時代の掘立柱塀と石積み溝、平城宮のものと同じ文様をもつ鬼瓦が出土している。

その近くの安専寺(本町2丁目)の北側に頑丈な蓋のされた井戸がある。
その井戸底には「井戸地蔵」が安置されているという。
かつてこの地域に赤痢が流行し、この井戸水が原因と考えられて地蔵を安置して水を清めて平癒祈願したという。
薬井2.JPG
ちなみにこの辺りの旧町名は「井戸」で、現在のJRや近鉄の駅が出来るまでは王寺町の中心部はこの辺りにあり、そのことから「本町」の地名になったという。

参考:
日本書紀を語る講演会
http://www.sap-co.jp/nihonshoki.html

王寺ボランティアガイドの会
http://oujiguide.web.fc2.com/

AUGA「葛下川」
http://agua.jpn.org/yamato/katuge/katuge.html

河合町「薬井の井戸」
http://www.town.kawai.nara.jp/kanko/kakure_spot/vol1.html

ブログ版『大和川水紀行』<鉄道フェスタから「潜水橋」へゆく>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2015-08-29

改定版:野崎から深北緑地へゆく

JR学研都市線野崎駅から東へ上る参詣道を10分ほど行くと、のざき観音慈眼寺がある。
生駒山地北部にある飯盛山(標高314m)の中腹に位置し、境内から河内平野を見下ろせる。
野崎まいり1.JPG
毎年5月1~8日に「野崎まいり」が開催され、大道芸などの多彩なイベントで賑わう。
江戸時代元禄期より伝わる行事で、正式には「無縁経法要」といわれ有縁無縁のすべてのものに感謝してお経をささげる行事だ。
野崎まいり6.JPG
(撮影日:2012.5.6)
駅の方へ少し下ったところに東高野街道が南北に通っている。
南へ行った街道沿いに東部配水場の東側に「メノコ橋」と刻印のある石の欄干がある。
「明治三十七年八月築架」とも刻印され、東高野街道に架かっていた井路は東部配水場建設に伴いなくなった。
弘法大師が修行中に10日ほどその橋の欄干を寝床(ネドコ)にしたとの伝説があり、「ネドコ」が「ネノコ」、さらに「メノコ」に転化してそう呼ばれるようになったという。
野崎まいり5.JPG
元禄期に寺が再興され、大和川の付け替えに伴う新田開発で交通が整備されると、「野崎まいり」が流行して「大坂」からの参詣者が増加した。
その船路は「大坂」の天満・八軒屋浜から大川、寝屋川、谷田川を上った。
屋形船では川岸の景色を眺めて川遊びをしながら船旅を楽しんだという。
その様子は『河内名所図会』や落語などの文芸に描かれた。
「野崎小唄」では「野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり・・・」と唄われた。
その船着場の「観音浜の由来」の石碑がJR野崎駅前の南方の谷田川沿いにある。
野崎まいり4.JPG
陸路は「東高野街道」のほかに八尾と枚方を結ぶ「河内街道」、新たに整備された「大坂」の京橋から東へ「東高野街道」へ至る「古堤街道」があった。
寝屋川・西村橋の道路角には「野崎観音」へ案内する石標が残っている。
野崎まいり2.JPG
この周辺は北から寝屋川、南から旧大和川の本支流が流れ込む「深野(ふこの)池」が広がっていた。
大和川の付け替えで新田開発された。
寝屋川を少し上った深北緑地にはその名を残す「深野池」があり、寝屋川の洪水時の遊水池になっている。
野崎まいり3.JPG

参考:
のざき観音慈眼寺
http://www.nozakikannon.or.jp/

ブログ版『大和川水紀行』<門真南から「深野池」へゆく>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2014-08-01

「平野屋新田会所」をゆく

大東市立歴史民俗資料館で開催中(~2017.1.15(日)まで)の市制施行60周年記念特別展『よみがえる平野屋新田会所』を観覧した。

旧大和川の川筋では度々川が氾濫したため1704年に大和川の付け替えが行われた。
これに伴い旧川筋や「新開池」「深野池」で新田開発された。
その一角の深野南新田(現在の谷川、深野南、平野屋、南新田)は東本願寺難波別院が開発し、1719年の再検地時には平野屋又右衛門の所有となった。
文献ではその新田の管理・運営した「平野屋新田会所」は18世紀前半の新田開発の当初段階には既に存在していたと推定されている。
その後、所有者が変遷して1823年に銭屋(高松)長左衛門になってからは解体される平成20年まで続いた。
その屋敷には井戸と覆屋のある井戸や米蔵、道具蔵、土蔵へと運ぶ船着場があった。
また屋敷の東には庭園が広がり、池には築山や濠があった。

本展ではその歴史を伝える絵図や文書、民具などが展示されていた。
「水」にまつわる民具として水田に導水する「踏車」(水車)、消防ポンプの「龍吐水」、庭園に設置されていた「灯篭」が展示されていた。
会所の南方を流れる鍋田川から導水して北側の周濠へ排水する「木樋」、魚を鳥などの外敵から守る避難場所として池底に設置されていた「木枠」が展示されていた。
(展示物の写真撮影は禁止)
平成20年に会所が解体されると、新しい住宅地として再開発された。
大東市はその歴史を検証するうえで重要として、会所の北西隅の米蔵、道具蔵、船着場石段跡が残る土地を購入して、現在はその整備方法を検討中だ。
平野屋会所4.JPG
会所跡の東側に鎮座する坐摩神社は新田開発の頃に大阪の産土神である坐摩(いかすり)神社から勧請したという。
鳥居前は小公園で子供たちの遊び場になっている。
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会所跡の北西側は濠跡の名残のある茂みに「農民感謝碑」がある。

かつて「会所」の周囲には河川や水路から農業用水を取水したり、内地の水を河川へ排水する樋門があった。
その名残が今もある。

会所跡の東方を流れる鍋田川の樋門からの導水が道路を跨いで会所跡へと流れる水口がある。
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国道8号線沿いに会所跡の西側を流れる銭屋川から鍋田川へ排水する銭屋川排水機場がある。
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会所跡の西方の谷川1丁目に樋門がある。
大東市役所前を流れるその新堀川で、野菜の一つの「クウシンサイ」を水耕栽培して水質浄化社会実験が行われている。
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参考:
大東市役所「よみがえる平野屋新田会所」
http://www.city.daito.lg.jp/kakukakaranoosirase/syougaigakusyuubu/syougaigakusyuuka/bunkazai/rekisupo/1478520246280.html

大東市役所「平野屋新田会所とは」
http://www.city.daito.lg.jp/kakukakaranoosirase/syougaigakusyuubu/syougaigakusyuuka/bunkazai/hiranoya_shiminsupporter/hiranoyashindenkaisyo/hiranoyashindenkaisyotowa.html

ブログ版『大和川水紀行』<古民家を守るには?>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2016-06-05

寝屋川市小路遺跡から四条畷へゆく

26日、JR学研都市線忍ヶ丘駅から北西へ徒歩約15分の讃良川の右岸(北岸)下に位置する寝屋川市の小路遺跡発掘調査現地説明会に参加した。
小路遺跡は寝屋川市小路北町および小路南町に広がる遺跡だ。
ここから古墳初期の竪穴住居跡7棟や多数の柱穴などが見つかった。
その南側では東から西に蛇行して流れる幅8m、深さ1.6mの自然河川とそれから分かれて西へ流れる幅2m、深さ1.3mの大溝が見つかった。
これまでの発掘調査で南北300m、東西300m以上の範囲に広がる大規模の古墳初期の集落があったとされ、この大溝は集落の西側に広がっていた田に自然河川から導水する用水路と考えられ、取水施設や100本を超える杭や矢板からなる護岸設備跡が見つかった。
小路遺跡1.JPG
また縄文中期~後期の土器が出土しており、近畿地方を代表する縄文中期の遺跡の隣接する讃良川遺跡の広がりが確認された。
讃良川遺跡では木の実を貯えておく貯蔵穴(ちょぞうけつ)の1箇所から底の部分にクリの実が見つかり、その役割を終えた後にゴミ穴として再利用されてセタシジミやマガキの貝殻、イノシシやシカの骨が見つかっている。
またクロダイ・スズキ・サメなどの魚の骨がみつかっており、魚を捕るための石や土器のかけらで作った漁網のおもりが出土している。
縄文中期としては府内最大の縄文土器が出土しており、東海・北陸・関東・東北地方の特徴をもった土器が見つかりその地域交流がうかがえる。

また大量の円筒埴輪が出土しており、小路遺跡の南東の四条畷市岡山にあった古墳前期で全長87mの前方後円墳の忍岡古墳との関係も注目されている。
忍陵神社の社殿の横にその後円部から見つかった竪穴式石室が保存されている。
小路遺跡4.JPG

讃良川の一部は修景整備され、地域住民で維持管理されている。
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讃良川の左岸に新池がある。
小路遺跡3.JPG
旧東高野街道沿いに四条畷市立歴史民俗資料館がある。
第31回特別展『ヒスイのきらめきー北河内からみた交流と縄文のまつりー』が開催されていた。
四条畷市では更良(さら)岡山遺跡で7.5cmのヒスイ製の大珠(中央に孔があいており首飾りとされた)が見つかっている。
ヒスイは深緑の半透明な宝石の一つで、東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高く珍重された。
美しいヒスイは新潟県糸魚川市の姫川などの流域でしか採取されず、縄文中期(約5000年前)からその産地周辺で加工・流通したことから、北陸地方との交流をうかがわせるものだ。
弥生時代・古墳時代には祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などにも加工された。
小路遺跡5.JPG
JR四条畷駅から東へ約1km、飯盛山の西麓に四条畷神社が鎮座している。
楠木正行を主神としており、その楠木家が氏神とする千早赤阪村に鎮座する建水分神社は水の分配を司る水神を祭祀している。
またその社紋である菊水は楠木氏の家紋としても知られており、その名の如く上半分が菊、下半分が水の流れを表している。
平安末期には「河内湖」の大部分は陸地化して、その名残の池や湿地帯が点在する中を「旧大和川」が流れていた。
楠木一族が「河内国」を支配していく中で「水の流れ」を支配することの重要性から祈願したことがうかがえる。
境内には淀川治水の大事業に貢献した大橋房太郎の顕彰碑があり、ともに「水の流れ」を支配しようとしたことを称えているようだ。
小路遺跡6.JPG

古代の景観シリーズ2「渡来人」

6日、難波宮跡公園で四天王寺ワッソが開催された。
1990年に四天王寺と谷町筋を舞台として始まってから今年で25回目だ。
今年は文化、心、友情を「育む」ことを大きなテーマとして掲げられていた。
つまり日本の伝統芸能は長い年月の中で日本独自の文化として育まれてきた。
538年の仏教伝来から長い歳月を経て日本の仏教として多くの人々の心を育んできた。
そして古代大阪は東アジアとの交流拠点、国際交流が活発に行われ多くの友情を育んできた。
それを現代に再現させた。

正午から天理大学雅楽部による雅楽「納曽利(なそり)」があった。
「納曾利」とは渤海、朝鮮半島からの音楽を中心とした舞楽に属する代表的な走舞(はしりまい)で、「双龍舞(そうりゅうのまい)」ともいわれ二匹の龍が戯れ遊んでいる様を舞にしたものとされている。
船着き場を模した中央ステージで、伝統楽器の篳篥などの奏でる中で勇壮な舞が舞われた。
その様子は大型電光モニターに映し出された。
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午後1時30分から巡行が始まった。
「神話の時代」から歴史順に当時の古代衣装を身にまとった朝鮮半島の国々から渡来した歴史上の人物とその使節団が巡行した。
そして大極殿のメインステージでは、同じく日本の歴史上の人物が彼らを出迎えた。
「古墳時代」では、メインゲストの浜村淳が演ずる「百済王・武寧王(ぶねいおう)」とその妃の「武寧王妃」と子の「聖明王」が舟だんじりに乗って巡行した。
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1392年に建国した「朝鮮王朝」では、獅子舞や「龍」などが華やかに巡行した。
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「難波宮」は645年の「乙巳の変」以降に孝徳天皇の難波長柄豊崎宮や天武天皇が副都とした前期難波宮と、その焼失後に再建された聖武天皇の後期難波宮が重層している。
それ以前にも仁徳天皇の高津宮もあるが、その遺構は今のところ確認されていない。

難波宮跡公園の東側に広がる難波宮内裏東方遺跡では、前期難波宮の高床式倉庫や建物跡や後期難波宮の回廊跡などが確認されている。
これらの建物群は宮殿中心部の周囲に配置された役所とされ、外国使節をもてなした迎賓館の機能をもった「望楼」の可能性があるという。
ちょうどこのあたりからJR森ノ宮駅へ向かって東へ急激に地形が下がっており、その「望楼」からは古代に広がっていた「河内湖」や生駒山を眺望できる絶好のロケーションだった。
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(大阪市教育委員会 大阪文化財研究所の案内板)
古代には外交使節が上陸した「難波津」があった。
その場所はいくつか説があるが、遷都や時代を経るごとに移動した可能性もある。

参考:
四天王寺ワッソ
http://wasso.net/

ブログ版『大和川水紀行』<「難波宮」と「難波津」を訪ねる>
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2012-12-01

古代の景観シリーズ1「馬」編

現在、大阪府立狭山池博物館特別展示室で『平成28年度特別展 河内の開発と渡来人 蔀屋北遺跡の世界」が開催されている。(開催中~2016.12.4日(日))
古代の馬研究会シンポジウム「河内の馬文化の源流を探る」が開催された。

狭山池の築造には朝鮮半島からの渡来人がもたらした敷葉工法などの土木技術が取り入れられた。
特別展では四条畷市の蔀屋北(しとみやきた)遺跡で出土した渡来系遺物などから狭山池築造前の渡来人の動向が展示されている。

蔀屋北遺跡は弥生時代から近世に至る複合遺跡だ。
生駒山地から西流する岡部川や讃良(さら)川によって形成された複合扇状地上に立地している。
古墳時代にはその氾濫によって形成された自然堤防の上に集落が営まれ、「河内湖」の東岸の一番奥部に位置していた。

蔀屋北遺跡では5世紀中頃~後半の多数の井戸跡が見つかっている。
その中の6基では上部の井戸枠に準構造船の船底や舷側板を転用されていた。
古墳時代には準構造船が瀬戸内海、大阪湾、「河内湖」を経由して朝鮮半島と蔀屋北遺跡間を航行して、馬を運んだ可能性が考えられている。

蔀屋北遺跡では古墳時代(5世紀)の土坑から馬の全身骨格が出土した。
体高は127cm前後で、宮崎県都井岬(といみさき)に生息している「御崎馬(みさきうま)」や愛媛県今治市に生息する「野間馬」の中型の日本在来馬であることがわかった。
現在、復元されたその全身骨格が大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されている。

木製の鞍や輪鐙などの実用的な馬具、多量の製塩土器なども多数出土したことから牧の経営(馬の飼育)を生業とする馬飼集団の集落「河内の牧」跡であった。

八尾南遺跡でも木製の鞍が出土しており、5世紀代の馬飼いの「ムラ」の跡とされている。
5世紀初期から八尾南遺跡など生駒西麓の「河内湖」周辺で馬に関する遺物が散発的に確認されている。
5世紀頃にわが国の玄関口だった「河内」に渡来人とともに馬や馬を使い慣らす技術が朝鮮半島から伝来したことを示している。
四条畷市の遺跡で馬や「牧」に関する遺物が多く出土していることから、5世紀中頃から牧の経営が本格的に始まったとされている。
『日本書紀』の応神天皇15年8月に、「百済は阿直伎と馬を献上。阿直伎は馬飼であり。」と記されており、文献上でも確認されている。

遺跡から牛馬の骨が大量に出土しているが、その意味合いは時代で少し異なる。
5世紀頃の牛馬は所有物として王権の威信を示すものとされたが、7世紀頃なると祭祀物として生贄にされ、平城京の内外で様々な祭祀が行われた。

『日本書紀』には675(天武4)年に「牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫」、『続日本紀』には741(天平13)年に「馬や牛は人に代って働き、人間を養ってくれる。このため先に明らかな制度を立てて、屠殺することを禁じた」と記されている。
牛馬の肉食や生贄の習慣が禁止される一方で、国家祭祀として神々の移動手段とした「馬」が奉納されている。
『続日本紀』には763(天平宝字7)年に日照りのために「丹生河上神(大和国吉野郡丹生川上神社。雨乞いの神)には、幣帛の他に黒毛の馬を加えて奉った」と記されている。
雨乞いには雨雲を示す「黒」を、日乞いには晴天を示す「白」や太陽を示す「赤」の馬が奉納された。
律令制に伴いその禁止令が出されると、それに代わって土で作られた馬や絵馬を捧げるようになった。
完形品で出土することが少ないことから疫病などの災厄を広めないように土馬の足を折って流したとする説もある。

四条畷市の讃良郡条里遺跡では絵馬が出土している。
古代馬1.JPG
(写真は柏原市立歴史資料館夏季企画展『まじなう』の展示作品)
現在でも「馬」が神の使いとして信仰されている。
古代馬2.JPG
(石切神社の「神馬」)
参考:
大阪府立狭山池博物館
http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/tokuten.html#spex201610

大阪府庁「蔀屋北遺跡から出土した馬の全身骨格」
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/23-1sitomiyaumadokou.html

大阪府庁「蔀屋北遺跡現地説明会」
http://www.gensetsu.com/060812sitomiyakita/doc1.htm

「すみよし湯ズニーランド」へゆく

10月10日は体育の日だ。
そして「銭湯の日」でもある。
東京都公衆浴場業環境衛生同業組合が「1010(せんとう)」の語呂からスポーツで発汗した後の入浴が健康増進につながるとして制定した。

住吉区民センターで「すみよし湯ズニーランド」が開催された。
銭湯の店頭にかかるのれんでできた「大迷路」、「ケロリンおけ」で知られる黄色の桶で「桶カーリング」などの手作りのイベントや昭和が漂う銭湯の模型などが展示されていた。
湯ズニーランド1.JPG
湯ズニーランド2.JPG
開催の目的は住吉と銭湯の魅力に触れてもらうとともに銭湯に足を運んでもらうことだという。
家庭風呂が普及して、銭湯の廃業で町から減り続けている。
私の住んでいる小学校区からは銭湯はなくなってしまった。
ちなみに私は日常的に近所の銭湯には行かない。
生れた時から家に風呂があった。
大学在学中や東京での風呂なしのアパート住まいになって銭湯が日常になった。
20数年前に通った銭湯をHPで調べてみると、ほとんどなくなっていた。
さらにアパートもなくなっていた。

家庭のエネルギー消費のうちで「給湯」は「動力・照明」に次いで割合が高い。
そのため家族みんなで銭湯に行くのが省エネになる。
また健康効果や地域住民との交流にもなるという。

しかし家庭風呂に代用としての銭湯の需要は少ないようだ。
都道府県の公衆浴場組合に多くが加盟する町の銭湯よりも少し高価な「スーパー銭湯」が集客するのは、家族みんなで車で行ける駐車場があり、家庭にはないサウナなどの施設が充実しているためだ。
さらにイベントなどで集客する「健康ランド」もある。

現在、最も近所にある銭湯は平野川・百済橋の架かる国道25号線沿いの「入船温泉」だ。
大阪府公衆浴場組合には加盟していないため割安で、施設も充実している。
湯ズニーランド3.JPG
また大和川・下高野大橋の北詰にある「ふれ愛温泉矢田」は銭湯では珍しい天然温泉で「大和川矢田温泉」として登録されている。
大阪市内ではじめて掘削に成功し、その泉源温度45℃の良質ナトリウム・カルシウム塩化物温泉で湧出している。

参考:
すみよし湯ズニーランド
http://sumiyoshi-yuzuniland.com/

大阪府公衆浴場組合
http://www.osaka268.com/

入船温泉
http://www.irifune.info/

ふれ愛温泉矢田
http://yata-jinken.com/fureai/index.html

大和高田の秋祭りと「旧高田川」をゆく

9日、近鉄南大阪線高田市駅前に広がる片塩商店街で「おかげまつり」が開催された。
商店街の北側を東西に走る横大路通りは 古代から浪速と伊勢を結ぶ街道として賑わった。
江戸末期にはお伊勢さんへ向かうおかげ参りが盛んになり、 当時の人たちはその一行に薬や湯茶などの接待してもてなしたという。
その往時を再現して毎年春と秋に多彩なイベントをしてもてなしている。
旧高田川6.JPG
駅の北側には石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ、いそのにますたくむしたまじんじゃ)が鎮座している。
「竜王宮」とも称され、横大路を沿うように大神神社を「龍の頭」、当神社を「龍の胴」、長尾神社(葛城市)を「龍の尾」とする伝承がある。
また第三代安寧天皇の「片塩浮穴宮」の伝承地でもある。

神社前を南北に走る通称「中央道路」はかつての「高田川(花内川)」の河川跡だ。
1932(昭和7)年から11年かけて上流の東中地区から下流の神楽(JR和歌山線橋梁付近、写真左側の下り道が旧高田川跡)まで付け替え工事が行われ、川の氾濫による水害が少なくなって今日の大和高田市の発展につながった。
1948(昭和23)年には廃川になった旧高田川を埋め立てて道路にする工事や近鉄線やJR線の駅舎工事や高架化工事などが行われた。
旧高田川1.JPG
その中心市街地を南北に貫く基幹道路でありながらS字に蛇行していることや、その両側の高まりにその土手道(写真左側が旧高田川跡)だった名残がうかがえる。
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現在、道路沿いにかつて架橋されていた顕彰碑が五か所(南側から「雛倉橋」「古川橋」「好仁橋」「天神橋」「大橋(相生)」)ある。
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(「好仁橋」をゆくだんじり)
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(「大橋(相生)」)
1600年に大和五ヶ所御坊(「今井御坊(称念寺)」「畝傍御坊(信光寺)」「御所御坊(圓照寺)」「田原本御坊(浄照寺) 」)の一つとされた「高田御坊(専立寺)」が建立され、南北400m、東西200mに及ぶ寺内町として発展した。
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現在、江戸時代の商家建築の町家や明治・大正時代の近代建築物、水路や井戸が残っている。
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JR高田駅の東側に鎮座する天神社で地車(だんじり)祭りが行われていた。
そのだんじりが寺内町を巡行した。
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寺内町の北方を東西に通る「天神橋商店街」の旧天神橋跡を渡ると馬冷池公園がある。
馬令池の畔にある「天神地蔵尊」は、村人を悪さをする河童から助けたとの伝説があり、「お助け祈願」と信仰されている。

中世の「高田」は現在の片塩小学校付近にあった「高田城」を中心にした「本郷」が発展していた。
「高田」は古くから伊勢街道へ至る横大路や下街道が交差する交通の要衝地で、大和川の水運も利用されて、多くの商工業者が集住する商業地として寺内町が急速に発展した。
旧高田川を境に東側の「本郷」では農業を主として綿花や菜種、煙草などの栽培が盛んに行われ、西側の寺内町では商業を主としてそれらを取り扱う問屋が軒を連ね、政治・経済的に対立したという。

幕末から明治にかけて本格的な繊維産業へ発展し、大和紡績(現在のユニチカ)の企業城下町として発展した。
しかし繊維産業の斜陽化で、昭和52年に閉鎖された工場跡地は「ユニチカオークタウン」などへと再開発された。
その一方でJR高田駅の西側の旧商店街は再開発から取り残された結果、古い町並みが残され保存整備されることになった。

参考:
片塩商店街
http://katashio.eemachi.com/index.html

大和高田市「高田川の付け替え」
http://www.city.yamatotakada.nara.jp/city/rekishi/takadagawa/index.html

大和高田市「大和高田市公園」
http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/yamatotakadasi-kouen.html

大和高田のだんじり祭り
http://danjiri.j-students.net/

一路一会「古い町並みと集落」
http://www.ichiro-ichie.com/05koto/nara/yamatotakada/yamatotakada01.html
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