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大阪天満宮の「うそ替え神事」となにわ七幸めぐり

天満宮(天神社)は全国各地に八幡宮(八幡神社)、稲荷神社に次いで多い。
平安時代に大宰府に左遷された菅原道真公の御霊を鎮める天神信仰が全国に広まった。
今も「学問の神」として受験生らの参拝者が多い。

949年に創建された大阪天満宮は毎年7月24日、25日の「天神祭」で有名だ。
毎月25日は菅原道真公の御縁日で、1月25日の「初天神」には愛でた梅の小枝を神饌に供える「梅花祭」や、平素の嘘を神前に詫びて菅公の愛鳥「うそ鳥」に託して誠に替える罪穢れを祓い福を招く「うそ替え神事」が行われている。
午後1時から紙袋が配られ、本殿前で「替えましょう。嘘を真に替えましょう」と声をかけ合って交換する。
30分ほど続いた後で開封すると、鷽(うそ)鳥の御守りがあった。
中には特別な印があるそうだが、私のものにはなかった。
七幸めぐり2.JPG
七幸めぐり3.JPG
大阪天満宮では2月第1日曜日に「なにわ七幸(しちこう)祭」と「七幸市 」が開催されている。
大阪天満宮は大阪の七つの社寺を巡ると七つの幸せを招くといわれる「なにわ七幸めぐり」の一つになっている。
また天満は昔から青物・魚・乾物の市が有名で、その賑わいを再現する青空市だ。

1.大阪天満宮 
「学業成就」
境内に井戸跡がある。
南門の横には「井戸神」を祀った小社がある。
間もなくその横に「天神水」が復活する。
約20年前に枯れた境内の6つの井戸の一つで、地下約70mの水脈から汲み上げられる。
その水は「御神水」のほかに、かつて周辺にあった酒造りや災害備蓄用に活用される計画だ。
七幸めぐり1.JPG
参考:
朝日新聞2013.10.26付夕刊

2.太融寺
「無病息災」
821年に嵯峨天皇の勅願により弘法大師が創建した。
不動明王が鎮座する不動堂に御滝場や庭園があり、都会のオアシスになっている。
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(撮影日2013.3.22)

3.今宮戎神社
「商売繁盛」
参考:
ブログ版『大和川水紀行』
「十日戎」と大阪七福神めぐり
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2014-01-09

4.住吉大社
「厄除祈願」
参考:
ブログ版『大和川水紀行』
住吉大社の「ウォータースポット」
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2013-01-12

5.四天王寺
「家内安全」
参考:
ブログ版『大和川水紀行』
四天王寺の日想観と「水」
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2012-09-22

6.大念佛寺
「諸芸上達」
1127年に聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が太子から夢のお告げを受けて鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建した。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、日本最初の念仏道場といわれる。
融通念佛宗の総本山の立派な本堂は「平野郷」の建築物の高さ基準になっている。
5月1日~5日の「万部(まんぶ)おねり」には多くの参拝者が訪れる。
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(撮影日:2010.5.4)

7.四條畷神社
「心願成就」
四條畷市にある南北朝時代の古戦場でもある飯盛山山麓にあり、楠木正行を主祭神としている。
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(撮影日:2016.11.26)

参考:
なにわ七幸めぐり
http://www.geocities.jp/naniwa7kou/

「十日戎」と大阪七福神めぐり

南海今宮戎駅の東側にある今宮戎神社は「えべっさん」の名で親しまれている。
600(推古8)年に四天王寺の西方の守護神として創建されたといわれている。
商売繁盛の神の「えびす大神」が祀られ、1月9日~11日の「十日戎」には多くの参詣者で賑わう。

1月9日午前11時から大阪木津卸売市場で「献鯛式」が行われた。
江戸時代から続く伝統行事で、戦後に一時途絶えたものの昭和58年に復活した。
福娘が奉納する長崎産の鯛2匹を選んで、今宮戎神社まで渡御した。
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大阪木津卸売市場は日本最大級の規模を誇る民間の地方卸売市場だ。
その原型は1710年頃(宝永年間)に始まった「野立ち売り」だ。
その百年後に「市」として官許された。
当時は国道26号線沿いにある大国主神社の北西部一帯にあったという。
大阪木津卸売市場の一角に三輪明神を祀る小社があるのも、大神神社に祀られている大物主神と同一の大国主神との由縁が深かったからだろう。
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今宮戎神社の北東角の門を出て北方に廣田神社がある。
神功皇后の諸国征伐から難波へ向かう船中、「摂津国広田」の杜に祀れという天照大神からの神告があったのが創建の始まりという。
本社では古くから「アカエ(赤エイ)」は神の使いとされ、その絵が奉納されている。
祭神の「賢彦名命(さかひこなのみこと)」は「アカエ」に乗って訪れる智恵の神とされ、叡知の「エイ」に通じることから合格・必勝の祈願を叶えるといわれている。
また無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、船底の冷えなどで痔が多かった漁師に信仰されたと考えられている。
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「えびす大神」は「七福神」の中でもよく知られている。
日本の土着信仰の神である「えびす大神」とインドや中国からの神とともに信仰されるようになった歴史的な経緯はよくわかっていない。
禅宗が盛んになった室町時代に「七福神」を描いた書画・軸などが飾られて「七福神(しちふくじん)」が広まり、江戸時代には「七福神めぐり」が盛んになった。
今も全国各地にあり、その信仰の篤さがうかがえる。
大阪市内には7か所の社寺からなる「大阪七福神めぐり」がある。
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1.今宮戎神社
「えびす大神」
唯一の日本の神だ。
釣り竿と鯛を持つ姿が印象的なもとは漁業の神で、「市」の守護神だった。
時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす商業や農業の神として信仰されるようになった。

2.四天王寺の「布袋堂」
「布袋尊(ほていそん)」
中国唐代末期に唯一実在したといわれる僧で、日本では「布袋さん」で親しまれている。
太鼓腹に袋を抱えている姿が印象的で、腹の中に「福」、袋の中に「財」、手に持つ「ヒョウタン」の中に無病息災をもたらすといわれている。

3.大国主神社
「大黒天」
インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神が日本古来の「大国主命」が習合して、食物・財福を司る神とされた。

国道26号線沿いにある敷津松之宮の摂社で、「木津の大国さん」で親しまれている。
「十日戎」と同じく1月9日~11日に「大国まつり」が催されている。
白ねずみは大国さんのお使いといわれている。
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4.大乗坊
「毘沙門天」
もとはインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、仏教では守護神の四天王の一人の「毘沙門天」とされた。
戦いの神とされ、大願成就、家庭の繁栄などの御利益があるという。

日本橋の「でんでんタウン」の一角にある。
もとは四天王寺の東北方にあった寶満寺37坊の1つ。
「清め不動明王」が鎮座している。
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5.法案寺
「弁才天(弁財天)」
もとはインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神で、「七福神」の中の唯一の女神だ。
琵琶を奏でている姿が印象的で、もとは川や池などの「水」を神格化しており、その「流れている」ことから音楽や芸術の神とされた。
学問成就や智慧と財宝の御利益があるという。

道頓堀川の日本橋の北東方にある。
もとは生国魂神社の神宮寺であったといわれている。
1878(明治11)年に現在地に移り、戦災で焼失後に復興された。

6.長久寺
「福禄寿(ふくろくじゅ)」
中国の道教の神で人命を司るとされる南極星の化身の南極老人のこととされている。
長い頭部が印象的で、三徳(幸福、俸禄、長寿を授ける徳を招福するという。

長久寺は天正17年に豊臣秀頼の武運長久を祈願して淀君の命で建立され、「淀君の寺」として知られている。

7.三光神社
「寿老人(じゅろうじん)」
中国宋代の仙人である寿星の化身とされているが、「福禄寿」の南極星の化身の南極老人の同名異体ともいわれている。
白髪の杖を付いた老人の姿が印象的で、富貴・長寿の神とされている。

三光神社では日本で一番長寿とされた武内宿祢を「寿老人」として祀っている。
高台にある境内の周辺は大坂城の「惣構」があり、「大坂の陣」では真田幸村が大坂城からの抜け穴を掘ったことで知られており、その史跡や真田幸村像がある。
手水舎は真田家の家紋である六文銭を模ったものだ。
七福神6.JPG
参考:
今宮戎神社
http://www.imamiya-ebisu.jp/

大阪木津卸売市場
http://kizu-ichiba.com/

恩智から大和川へ東高野街道をゆく

近鉄恩智駅の東方を南北に通るのが東高野街道だ。
その南西角にある伝統的な民家の塀板は船材だ。
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東方の山腹に鎮座する恩智神社への参道に「二の橋」がある。
参道を約10分ほどの「一の橋」から石段を上がっていくと境内が広がっている。
春日大社と由縁が深く「元春日」と呼ばれていた。
また『三代実録』によれば、千早赤阪村の「建水分(上水分)神社」に対して「下水分社(しものみくまりしゃ)」とされた。
社務所裏に「閼伽井戸(清明水)」がある。
弘法大師が錫杖で突くと霊水が湧出し、難病を治すといわれた。
また古くより天候を予知する清水として知られ、雨の降る前になると赤茶の濁水が流れ出たという。
導水された谷水が今も湧出しているが、石鉢が黄色くなっていることから鉄分が多いのだろう。
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恩智神社の隣にはかつての「神宮寺」の感応院に池のある庭園がある。
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東高野街道に戻って南に行く。
柏原市法善寺地区には街道筋と西方を流れる恩智川右岸と間で多目的遊水地が計画されている。

そこから東へ約5分山手に上ったところに瑠璃光寺(山ノ井町)がある。
石垣の谷川の脇にこの地の由来になった「閼伽井(山ノ井)」がある。
『河内名所図会』に「清冷甘味なり。眼疾のもの濯ば善治するの験があり」と記されている。
弘法大師が澱んだ泉水に杖を突き立てると清水が湧出したと伝えられている。
今は草が繁茂して澱んでいる。
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瑠璃光寺の隣には融通念佛宗の清水山山井寺がある。

太平寺2の交差点から東へ約5分ほど山手へ行くと、ブドウ畑が広がっている。
その中を用水路が沿う小道を上っていった。
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山を見上げると「仏様」がいた。
土砂ダムの壁に大阪教育大学の有志らが描いた「智識大仏」と『伊勢物語』の一歌が描かれている。
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その少し北にある観音寺の参道を下ったところに「清浄泉」がある。
奈良時代にはこの付近に聖武天皇の「行宮」や「河内六大寺」の一つの「智識寺」の井戸があり、その飲み水とされた。
上水道ができるまで地元住民の飲み水として貴重だった。
また弘法大師が掘って付近の住民や農作物を干ばつから救ったという伝説があり、今も「大師の水」として守られた井戸と水脈を含む地域は大阪府の史跡に指定されている。
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近鉄安堂駅から南東方へ約10分上った高台に「サンヒル柏原」がある。
街道筋から離れたところだが、大和川の水面を眼下に河内平野を見渡せる。
特に夕陽がきれいだ。
恩智神社5.JPG
参考:
恩智神社
http://www.onji.or.jp/

「和泉国」をめぐる

JR北信太駅の南西方に葛葉稲荷神社がある。
平安時代に陰陽師として活躍した安倍晴明が信太の森の白狐を母として生まれたという「葛葉伝説」の舞台として知られている。
境内には「お稲荷さん」の小社が並び、御滝行場がある。
稲荷大明神第一の御命婦白狐が美婦人(葛の葉姫)と化現したときに、鏡に代えて姿を写したという「姿見の井戸」がある。
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国道26号線の西側に国の史跡に指定されている池上曽根史跡公園が広がっている。
弥生時代最大級の大型掘立柱建物跡やクスの木をくり抜いた内径2mの井戸、大溝などが出土しており、全国屈指の規模をもつ弥生時代の直径約300mの環濠集落遺跡だ。
大型建物の柱は年輪年代測定法から紀元前52年の伐採と判明している。
これらの遺構が復元されている。
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JR和泉府中駅の東方に泉井上(いずみいのうえ)神社がある。
200年に神功皇后が立ち寄った際に一夜にして霊泉が湧出したとの伝承から祀られるようになったという。
古くから「国府清水」または「和泉清水」と呼ばれ、農業用水として周辺の農地を潤した。
その味は甘露として広く知られ、豊臣秀吉が大坂城で茶の湯に用いたという。
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701年の「大宝律令」によって畿内に「大和国」「摂津国」「河内国」「山背国」の4つの「国」が置かれ、757(天平宝字元)年に「河内国」から分離する形で「和泉国」が誕生した。
716年に「国府」が泉井上神社周辺に置かれ、後の「和泉国」の命名の由来になったという。
その碑は東側の鳥居前を南北に通る熊野街道(小栗街道)を挟んだ公園にある。
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JR北信太駅へ至る熊野街道沿いにはため池(前奈池など)だった公園や伝統的な建物がある。
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JR北信太駅の東方にある旧府(ふるふ)神社には、「和泉国府」の前身の「河内国」の役所があったという説がある。

熊野街道筋から東方に約1km離れた桑原にある西福寺に「雷井戸」がある。
東大寺再建に尽力した重源上人がこの地で雨乞いの儀式をしていた時に、村人が井戸に落ちた雷を閉じ込めた。
この地(桑原)の「クワバラ、クワバラ」と呪文を唱えれば、この地には落ちないと約束をして雷を解放したという伝説がある。
その呪文が雷封じとして全国に広まったという。
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参考:
和泉観光ナビ
http://www.tourism-industry.izumi.osaka.jp/index.html

信太森葛葉稲荷神社
http://www2.ocn.ne.jp/~kuzunoha/

大阪府立弥生文化博物館
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/index.html

泉井上神社
http://www.izumiinoue-j.org/index.html

無量山 西福寺
http://muryouzan-saifukuji.jp/

淀川シリーズ②摂津富田をめぐる

阪急富田駅の南方に広がる高槻市富田(とんだ)は、中世末期に浄土真宗の寺院を中心に形成された寺内町だ。
1532年に信徒らの家々が焼き払われた後、教行寺(真宗大谷派)や本照寺(本願寺派)が中核となって発達した。
本照寺には庭園や濠跡があった。
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寺内町として機能が衰えた後、江戸時代には酒造業で栄えた。
そのため大神神社から酒造りの神を勧請して三輪神社が鎮座している。
最盛期には24の酒造家が軒を並べたが、池田や伊丹、灘、今津の酒造に押されて衰退し、現在は2軒残るだけだ。
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富田の東方を流れる女瀬川を上っていくと今城塚古墳がある。
前方部の内濠は豊かな水を湛えている。
後円部の内濠や外濠は古墳公園として整備されている。
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女瀬川が合流する東方の芥川に挟まれた三島平野のほぼ中央に位置している。
全長約350mで二重の濠がめぐっており、淀川流域では最大の前方後円墳だ。
国内最大の家形埴輪や武人埴輪など百数点の埴輪が出土している。
北側内堤から見つかった埴輪祭祀区は大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとされている。
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発掘調査の結果、その被葬者は『日本書紀』に531年に没したと記されている第26代継体天皇の陵墓と考えられている。
ところが宮内庁がその陵墓としているのが西方にある太田茶臼山古墳だ。
女瀬川を少し下った氷室川との合流地の東西に通る道は京都と西国を結ぶ西国街道筋で、それを西へ行った街道筋の台地上にある。
周囲に濠がめぐる全長226mの前方後円墳だ。
5世紀頃の築造とされていることから没年と合わないために今城塚古墳こそが真の陵墓とされている。
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継体天皇は謎の多い人物で、研究者の間でも論争が多い。
『日本書紀』には後継者が絶えて大連大伴金村らが謀議して越前から迎えたと記されている。
507年に「樟葉宮(くずはのみや)」(伝承地は枚方市)で即位したが、大和の豪族間の争いで山背(やましろ)を転々と遷都して、ようやく大和に「磐余玉穂宮」(伝承地は稚桜神社)を構えることができた。
そのことから畿内南部の大和川水系の勢力に対抗した畿内北部の淀川水系の勢力が擁立した、という説が唱えられている。
どちらの陵墓にしても淀川水系の三島古墳群にあることから、周辺の豪族とゆかりや権力の移行があったと考えられよう。

西国街道を離れて東芝工場跡を南に行ったところに磯良(いそら)神社がある。
「疣水(いぼみず)神社」とも呼ばれている。
神功皇后が戦勝祈願した際に、霊泉「玉の井」で顔を洗うと疣や吹出物の醜い男の姿になった。
そのおかげで勝利し、凱旋した後に顔を洗うと再び美しくなったという伝承がある。
そのことから古くから霊泉「玉の井」は、疣はもちろん諸病平癒に霊験あらたかな御神水として知られた。
現在も覆屋の中にあり、御神水を求める人が絶えない。
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JR京都線の南方に総持寺(真言宗)がある。
その縁起には、平安時代に藤原山蔭卿が幼い頃に淀川に落ちた時にその父親が助けた大亀に救われたという「亀の恩返し」によって開山されたという。
そのため境内には「亀」が多く、池の中島にあるお堂は亀の背中に鎮座している。
富田7.JPG
参考:
高槻市役所「いましろ 大王の杜」
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/index.html

茨木市役所「太田茶臼山古墳」
http://www.city.ibaraki.osaka.jp/kurashi/bunka/shiseki/shoukai/1315371528599.html

総持寺
http://www.sojiji.or.jp/

撮った!平野川のカワセミ

ついにカワセミの写真を撮った。
JR平野駅へ向かう遊歩道を歩いていた時だった。
旧東除川跡とされる用水路が平野川に合流するところに立っていた棒に止まっていた。
すぐさまカメラを向けた。
すぐに飛び立たなかったので数コマ撮影できた。
飛翔する瞬間も狙ったが、あまりにも速くて駄目だった。
120mmの標準ズームレンズだったので、画像はかなり小さくなった。
拡大して画質は悪くなったが、確認できる写真は撮影できた。
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次は営巣地を探すことだ。
ところがその候補地の一つの長吉ポンプ場沿いの堤防が崩落していた。
原因は不明だ。
平野川野鳥6.JPG
この機会に大阪中央環状線の下流からJR大和路線橋梁までに生息している野鳥を観察した。
ドバトやスズメ、ハシブトカラスは年中、見かける。
尾を小刻みにピクピクさせているのはセグロセキレイ(ハクセキレイ?)だ。
平野川野鳥2.JPG
水中を潜ってエサを探しているのはカワウ(写真両端)だ。
サギ類ではアオサギやシラサギ(ダイサギやコサギ、写真右から2番目)がいる。
平野川野鳥5.JPG
くちばし先の黄色いカルガモは留鳥になった。
冬を迎えて冬鳥の姿が多くなった。
頭部が緑色をしているのはマガモのオス(写真左手)だ。
そのメス(写真右手)は地味だ。
平野川野鳥4.JPG
尾が長く尖ったオナガガモ(写真左手3羽)や頭部が茶褐色でくちばしの短いヒドリガモ(写真右手2羽)がいる。
平野川野鳥3.JPG

「水都大阪」の再生に向けたセミナー報告

大阪市立環境科学研究所と大阪府立環境農林水産総合研究所が共催した環境セミナー「水都大阪! 河川と水辺の再生」に参加した。
「大阪の河川の復活」を目指して取り組まれている2つの事例と「水辺環境をはぐくむ市民協働の取り組み」として2つの事例が報告された。

1.演題「道頓堀川のさらなる水質向上は可能か~河川水調査の結果より~」
報告者(大阪市立環境科学研究所 大島 詔)

「汚い」というイメージがある道頓堀川は、今ではかなり良くなっているという。
干満の影響を受けている土佐堀川のきれいな水を東横堀川に設けられた水門調節して導水する「浄化運転」がなされているためだ。
今後、下げ潮の時にきれいな河川水を導水できるようになればさらなる水質向上の可能性があるという。
写真は数年前に四つ橋筋に架かる深里橋付近に設置されていた浄化装置だ。
環境セミナー1.JPG
(撮影日2009.9.26)

2.演題「大阪でもシジミが採れる。淀川のシジミ復活」 
報告者(大阪府立環境農林水産総合研究所 山本圭吾)

淀川大堰から下流の河口部でヤマトシジミ漁が行われている。
もっとシジミを増やすには、干潟の保全だけでなく、起伏のある浅場の造成や塩分濃度の変動を抑えることが効果的だという。
写真は十三大橋の下流左岸の「中津浜」だ。
環境セミナー2.JPG
(撮影日2013.12.11)

3.演題「都市公園池の再生を目指した住吉区万代池の取り組み」
報告者(大阪市立環境科学研究所 西尾孝之)

住吉区にある万代池の水質改善に向けて地元住民を交えて議論されている。
エア式の浄化装置が二か所設置されているが、池に流入する水がないために水質悪化が止まらないという。
窒素やリンなどの栄養塩類濃度が高くなると、ラン藻類が大増殖して、魚が酸欠で死ぬこともあるという。
また臭いや景観的にも悪くなっているという。
池干しは流入する水がないために水を抜いた後の注水が難しいという。
今のところ浚渫工事を求める意見が多いという。
環境セミナー3.JPG
(撮影日2013.12.16)

4.演題「淀川の生物多様性復活、イタセンパラ物語」
報告者 (大阪府立環境農林水産総合研究所 上原一彦)

昭和46年に淀川で絶滅したと思われていたイタセンパラが発見された。
ところが平成17年を最後にその確認が途絶えてしまった。
日本固有種の淡水魚で、板のように平たくて色鮮やかな腹部を持つことから「イタセンパラ(板鮮腹)」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。
その復活に向けて平成21年と23年の秋には人工繁殖させた成魚が放流された。
外来魚駆除など官民と市民が共同して取り組まれてきた。
その甲斐あって平成25年にはその稚魚が確認され、定着したと見られている。
赤川2.JPG
(撮影日2013.9.28)

参考:
大阪市役所「『府市連携環境セミナー』の概要」
http://www.city.osaka.lg.jp/kenko/page/0000008388.html

「手すき再生紙」を体験する!

牛乳パックと大和川で刈られたヨシ(セイタカヨシ)を利用した再生紙づくりの体験をした。
指導してくれたのは平野区で15年間活動してきた「特定非営利活動法人もなか会 紙再生工房」だ。

牛乳パックの表裏に貼られているビニールをはぎ取って、細かくちぎりミキサーで撹拌させた。
それに大和川で刈ったヨシをアルカリ処理したものを混ぜ込んだ。
それをハガキ大のすき枠にすきあげた。
それに絵柄の装飾を施して、ローラーなどで水分を取り除いて今日の工程は終わった。
再生紙1.jpg
一日、自然乾燥させて完成した。
ヨシの繊維がわずかに見えた。
ただシワシワで絵柄の装飾も見えにくくなっていた。
実用できそうもないが、初体験としてはこんなものと納得させた。
再生紙2.jpg

後日、ヨシを探しに大和川に行った。
同じイネ科のススキやオギと似ているので断定できないが、高野大橋周辺(写真)で見かけた。
大和川下流域ではJR阪和線橋梁の下流右岸で群落が見られた。
毎年、洪水などで生育状況は異なるそうだ。
また大和川では「ヨシが少なく、セイタカヨシが多い」という。
再生紙3.jpg
ヨシは垂直になった茎は2~6mの高さになる。
そして条件さえよければ地下茎は一年に約5m伸びるという。
ヨシ一本で年間20リットルの水を浄化するといわれている。
大和川では水際から離れたところに生育していたが、地下茎が伸びて浄化効果があるのだろう。

ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭)ともいわれるが、「悪し」に通じて縁起が悪いために「ヨシ」と呼ばれるようになった。
『古事記』には最初の二柱の神が生まれる様子を「葦牙のごと萌えあがる物に因りて」と記されている。
「葦牙」とは葦の芽のことだ。
二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれたことから、日本は「豊葦原瑞穂の国」と呼ばれた。
それほど日本の水辺には葦原が多かった。
ヨシの茎を使った「葦簀(よしず)」や「茅葺民家」の屋根に利用されてきた。
ところが河川改修などで失われていった。
最近になって自然浄化作用を持つヨシ(アシ)が見直されている。
その一つが再生紙への活用だ。
水辺の再生とともに日本の伝統産業や景観が復活すればよいと思う。

参考:
特定非営利活動法人もなか会 紙再生工房
http://www.kamisaisei.org/

大阪府教育センター「大和川の植物」
http://www.osaka-c.ed.jp/sog/kankoubutu19/kenkyuu19/pdfs/03/04.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B7%9D+%E3%83%A8%E3%82%B7'

松原・高見の里から堺へ西除川を下る

近鉄高見ノ里駅の南方の住宅街に「高見の惣井戸」(高見の里3丁目10)がある。
弘法大師が水に困っていた高見村のために水を湧出させたという伝説がある。
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南方を流れる西除川には新西除橋が架かっている。
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新布忍橋の左岸に「西除川改修記念碑」がある。
昭和57年8月の豪雨でこの付近で被害を出したことから改修された。
傍らに「大龍大神」を祀った小社がある。
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長尾街道に架かるのが布忍橋だ。
西除川の改修に合わせて昭和63年に竣工された。
長尾街道が拡幅されるまで石橋が架かっていたという。

その北西詰にある新町公民館前に石組の井戸がある。
「更池村惣井戸」と刻まれており、その村人の共同井戸として造られた。
また前を通る東西の道は堺と大和を結ぶ長尾街道で、その往来者や荷車をひく牛馬の口も潤した。
高見5.JPG
もともとは東側の河川敷にあったが、西除川の改修に伴って移設された。
そのモニュメントとして西除川遊歩道に石組の井戸がある。
高見4.JPG
このほかに称名寺(南新町2)にも「惣井戸」が残っている。
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西方にある宝泉寺(南新町6)には清水が湧出した「清水井戸」があったという伝承があり、それに因んで山号は「清水山」と称されている。
かつては「清水村(町)」と呼ばれ、その地名から周辺は清水や泉が湧出していたことがうかがえる。
一帯は清水遺跡で、古墳時代から近世にかけての集落跡や室町時代の井戸跡が見つかっている。
周辺の南新町遺跡では平安時代の井戸跡、布忍遺跡や高木遺跡でも鎌倉時代から室町時代にかけての井戸跡が出土している。

朱色の欄干の宮橋の左岸沿いに布忍神社が鎮座している。
かつてこのあたりでは布忍川とも呼ばれ、当時の松原における名勝地だった。
江戸時代の『河内鑑名所記』や『河内名所図会』にはそれを詠んだ狂歌や俳句が残っている。
神社には1705(宝永2)年に名所・旧跡や風景を選んだ「布忍八景」の絵馬が奉納されている。
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左岸の少し西に北新町大池公園がある。
大池の水辺空間を活かして公園整備されており、せせらぎや木橋やあづまやなどがある。
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大池の西側の高木町公民館付近には皿池があった。
この辺りから弥生後期の集落跡から井戸跡や海水を入れて塩作りに使う製塩土器などが見つかっている。

天美大橋の西側に大阪府立今池水みらいセンターが広がっている。
大和川に流入する西除川、東除川の下流域を処理区とした流域下水道で、一日に138000立方mの処理能力がある。
処理水を導水したせせらぎがある『虹の広場』、水処理施設の屋上には 『風の広場』がある。
今池橋の前のセンター敷地内に「今池跡」の石碑がある。
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西除川の万歳橋の先で大和川に合流している。
この付近は昭和57年8月の豪雨で西除川下流地域が洪水被害に見舞われたために建設された放水路だ。
本来は大雨時に大和川へ直接流すための空気式の堰があるが、現在、阪神高速大和川線の建設工事のために西除川がなくなっている。
改修碑が残っていることから、それを活かして新たな姿になるのだろう。
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西除川左岸の台地上に浅香山稲荷神社が鎮座している。
大和川の付け替えの際にこの付近で事故が多発したことから「狐のたたり」と噂され、新たに神殿が建立されたという。
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JR浅香駅の西側で狭間川と合流して大和川へと注いでいく。

参考:
松原市役所「歴史ウォーク」
http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,0,51,265.html

大阪府庁「今池水みらいセンター」
http://www.pref.osaka.jp/nambugesui/sisetu/imaike.html

堺から松原へ竹内街道を歩く

『日本書紀』の推古天皇21(613)年の条に「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されており、それが日本最古の官道とされている。
7世紀には「丹比道(たじひみち)」が整備され、長尾神社(葛城市)の北側で横大路(よこおおじ)と接続していた。
それが後に竹内街道と呼ばれるようになった。
今年、「大道」の敷設から1400年を記念して竹内街道沿いで石碑の設置やイベントが開催されている。
阪堺線大小路駅の東南角に「竹内街道」の起点となる石碑がある。
南北に通る大道筋は「紀州街道」で、竹内街道は東西に通る大小路通りを東へ至る。
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ASTY山之口商店街にある開口(あぐち)神社の鳥居脇に「海会寺金龍井(海会寺井)」(堺市堺区甲斐町東2)がある。
干ばつで龍神に祈祷すると化身した老人が井戸の掘る場所を教えたという伝説がある。
古来より豆腐や茶の湯に用いられた名水とされた。
今は龍の口から流れる水はもう飲めない。
開口神社は奈良時代には「開口水門姫神社」と称され、港(湊)を護る神を祭祀していた。
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宿院交差点の南西方に「千利休屋敷跡」(堺市堺区宿院町西1)がある。
ビルの狭間に残った屋敷跡に千利休が茶の湯に常用したといわれる「椿井」がある。
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フェニックス通り沿いにある住吉大社宿院頓宮には、磐座(いわくら)を祀った空堀の「飯匙堀(いいがいぼり)」がある。
幸山幸神話に登場する潮干珠(しおひるたま)を納めたところという伝説がある。
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阪神高速堺線高架下に沿って土居川公園がある。
土居川は環濠の名残で、昭和40年代はじめに北側と東側は埋められた。
北へ行くと、環濠土居川に架けられていた「極楽橋」が移築復元されている。
江戸末期の石橋で全長11.6m、幅2.6mだ。
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さらに北に手押しポンプ井戸があり、「農人町井」(柳之町東2)の碑がある。
『堺市史』には大干ばつになっても枯れない井戸水と記されている。
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堺市役所21階の展望ロビーでは360°のパノラマが楽しめる。
南の眼下には仁徳天皇陵がある。
西は大阪湾の明石大橋が遠望できる。
北はあべのハルカスなどのビル群だ。
東は生駒から金剛山までの山並みが望める。
二上山南麓の竹内峠が竹内街道(写真中央)だ。
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南海高野線を渡ってしばらくすると、西高野街道との分岐点に出る。
竹内街道の少し北の町角に「旧向泉寺閼伽井跡」(堺市堺区榎元町5)がある。
かつて行基が創建した向泉寺があった。
行基が掘り当てたといわれる井戸は方違神社などの閼伽水にもされ、諸病を平癒したという。
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大阪中央環状線・向陵中町の南東角に石碑がある。
地下鉄御堂筋線が通る道路の東に金岡ドリーム公園がある。
周辺の土地区画整理事業に伴って窪田池を埋められてできた。
街道沿いのコンクリート三面張りの水路は狭間川だ。

金岡神社に出る。
住吉大神や素盞嗚命、大山咋命が祀られた後の平安前期に絵師「巨勢金岡」を合祀して金岡神社と称された。
日本画の祖とされる「巨勢金岡」が筆を洗ったという伝説が残る「金岡淵(金岡卿筆洗いの池)」が、神社の北東方約150mにあった。
今は石碑があるだけだ。
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街道沿いに「大道町」と称する町内会がある。
「難波宮」から南下していた「難波大道(なにわだいどう)」は堺市と松原市の境界上を通り、この付近で交差していたと考えられている。

大泉緑地の南東部の街道沿いに「大池開墾之碑」がある。
池の西半分は堺中央綜合卸売市場などの店舗として利用されている。
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西除川・西除橋を渡ると松原市だ。
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国道309号線の東方に清堂川・岡橋がある。
その北方に「清堂池」と「宮ノ池」があり、松原市新堂地区のかんがい用水として活用されている。
今は中堤で分かれているが、もとは同じ池だったのだろう。
「宮ノ池」の出島には弁財天が祀られている。
『日本書紀』には4世紀末の応神朝に百済から王仁博士が渡来したという。
その聖堂がこの出島付近にあったとの伝承がある。
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岡公園はもともとは「増池」で、残った西半分の池の上には岡公民館がある。
街道を挟んだ南側にも昭和48年まで「新池」があった。
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公園の東隣りは弘法大師を祀る大師堂(岡5丁目4)だ。

松原南図書館前に石標がある。
平野から狭山・高野山を結ぶ中高野街道との交差点だ。
この付近は「松生いし丹比の松原」と歌われ、竹内街道の要衝地として栄えたという。
この付近には葛井寺(ふじいでら)、道明寺(どうみょうじ)や伊勢神宮などへの参詣者や商人のための茶屋や宿屋が軒を連ねていたという。
明治時代には、「松原茶屋」と呼ばれる12軒もの店が並んだ竹内街道は「茶屋筋」と呼ばれていた。

参考:
大阪府庁「竹内街道・横大路~難波から飛鳥へ日本最古の官道(大道)~1400年活性化事業」
http://www.pref.osaka.jp/doroseibi/rekishikaidou/saikonokandou1400.html

住吉大社宿院頓宮
http://www.shukuin-tongu.net/

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